女子プロレスは強く美しい

女子プロレスは強く美しい


なぜ女子プロレスは美しく見えるのか


女子プロレスを見ていて、ふと「美しいな」と思うことがある。
ここでいう美しいは、顔が整っているとか、スタイルがいいとか、そういう話だけではない。
もちろん美人レスラーは大歓迎である。我輩だって男なので、そこを無視して高尚なスポーツ論だけを書く気はない。


だが、それだけでもない。
汗だくになって髪を振り乱し、顔を歪めながら技を受け、マットを這い、それでも立ち上がる。
普通に考えたら「美しい」という言葉から最も遠そうな姿なのに、なぜか妙に美しく見える。
女子プロレスには、そこがある。




■ リングに上がった瞬間、普通の女性ではなくなる


街中ですれ違ったら、ごく普通の綺麗なお姉さんかもしれない。
ところがリングコスチュームを着て、ロープをまたいだ途端に別人になる。


これは昔の全日本女子プロレスを見てもそうだし、現在の女子プロレスを見ても同じ。


リングという場所には、女性を日常から切り離して見せる妙な力がある。
会社帰りの女性が駅で腕まくりしても、別に何とも思わない。
しかしリングの上で腕まくりならぬ、肩を回し、相手を睨みつけていると、それだけで絵になる。
なぜだろう。
たぶん「これから闘う」という目的がはっきりしているからだ。
女性の身体が、飾るためではなく、相手を倒すために使われる。
そこがいい。




■ 強い女が美しい、だけでもない


女子プロレスを語る時、「強い女性は美しい」という言葉で片付けられることがある。
まあ間違ってはいない。


でも、それだけならボディビルでも陸上でも柔道でもいいはずだ。
女子プロレスの場合は、強い女性が必ずしも強いままでは終わらない。
投げられる。
蹴られる。
押さえ込まれる。
関節を極められる。
悶絶する。
そしてまた立つ。
この上下動がある。


ここが面白い。
圧倒的に強かった選手が突然ピンチになったり、華奢に見えた選手が思いのほか頑丈だったりする。


「この女、強いな」


と思った数分後に、


「おいおい、やられてるじゃないか」


となる。


この危うさまで含めて女子プロレスの美しさなのだと思う。



■ むしろ苦しそうな時に目を奪われる


これは少々フェティッシュな話になる。
女子レスラーが華麗に技を決めている姿より、技を掛けられて耐えている場面の方が妙に印象に残ることがある。
ボストンクラブでも、コブラツイストでもいい。
身体が不自然な形に曲げられ、顔には余裕がなくなる。
普段なら見せない表情が出てくる。
これが映画やドラマの演技なら、こちらも「演技」と分かって見ている。
だがプロレスには、本当に苦しい部分が混ざる。
全部が芝居というわけではない。
痛いものは痛い。
重いものは重い。
疲れるものは疲れる。
その現実とショーの境目が曖昧だから、妙な生々しさが出る。
我輩は、この生々しさこそ女子プロレス最大の魅力の一つだと思っている。



■ リングコスチュームも、やはり大きい


ここを無視すると嘘になる。
女子プロレスの歴史を見れば、リングコスチュームも魅力の一部だった。
昔のクラシカルな水着型コスチューム。
派手なワンピース。
現在の華やかなコスチューム。
選手によっては、かなり攻めたデザインもある。
だが面白いのは、同じ服装でグラビアを撮ったところで、リング上と同じ魅力にはならないことだ。
闘っているからいいのである。
太腿に力が入り、背中が張り、肩や腕の筋肉が動く。
走る。
飛ぶ。
踏ん張る。
転がる。
衣装と肉体が「動いている」。
静止画の美人とはまったく違う種類の色気が出る。
これもまた女子プロレスならではだろう。



■ 完璧じゃないから面白い


最近は映像が綺麗になった。
選手も洗練された。
技術レベルも高い。
もちろん、それは良いことである。
しかし昔の女子プロレス映像を見ていると、今より雑だったり、荒かったりする。
髪型も崩れる。試合も泥臭い。


それでも、妙に目が離せない試合がある。
いや、むしろ多少ぐちゃぐちゃになっている方がいい時さえある。
人間が本気で誰かとぶつかれば、そんなに綺麗にはならない。
最初は余裕たっぷりだった女が、10分後には汗まみれ。
さらに数分後には床を這っている。
それでも立ち上がって相手に向かっていく。
美しいという言葉は、本来こういう場面にも使ってよいのではないか。
少なくとも我輩が女子プロレスを見て「いいなあ」と思うのは、モデルのように完璧に立っている瞬間ではない。
闘った結果、少し崩れている時だ。
女子プロレスの美しさとは、美人がリングにいることではない。
女が本気で闘っている、その姿そのものが美しいのである。